はじめに
「契約書にまだサインしていないから、交渉を打ち切っても法的な問題は生じない」と考える企業担当者は、少なくないかもしれません。
もっとも、交渉が一定程度進んだ段階での一方的な離脱は、正式な契約が成立していなくても、信義則(民法1条2項)上の義務違反として不法行為に当たることがあります。
東京高裁令和5年9月6日判決は、LED街路灯に関する公共事業をめぐるリース契約交渉において、一方当事者の交渉からの一方的離脱が不法行為に当たると認めながらも、被害者側が交渉破棄後に自らの意思で事業を継続したことにより生じた損害は、賠償の対象となる「信頼利益」には当たらないとして、損害賠償請求を全面的に棄却しました。
本判決は、契約交渉段階における当事者の責任と、実際に賠償として回収できる損害の範囲に関して、実務上参考となる判断を示した事案です。
今回のコラムでは、上記東京高裁判決について、概要を紹介いたします。
事案の概要
被控訴人(原審原告)X社(Xファイナンス株式会社)は、神奈川県O市が発注したLED街路灯設置に関する公共事業(以下「本件事業」)を落札したリース会社です。X社は、本件工事や保守管理業務を自ら行う能力がなく、当初は本件入札への参加に積極的ではありませんでした。
控訴人(原審被告)Y社は、X社に対して積極的に本件入札への参加を働きかけ、詳細な見積書や各種資料を提供し、自ら本件事業においてマネジメントの役割を担う体制図を作成しました。X社は、Y社の提供した資料を前提としてY社をサプライヤーとする方向で社内決裁を経て入札に参加し、本件事業を落札しました。
落札後も、X社とY社は、LED照明機器の設置工事に関する契約(以下「本件工事契約」)及び保守管理に関する契約(以下「本件保守管理契約」。両契約を合わせて「本件各契約」)の締結に向けた交渉を継続していました。しかし、Y社は令和元年7月24日、コンプライアンス上の問題等を理由として本件事業から一方的に離脱する旨を表明しました。
Y社の離脱後、X社は、O市から事業の継続を要請され、自らの意思で本件事業を辞退せずに遂行することを選択し、代替業者であるE電機との間で工事請負契約を締結した上で本件事業を完了させました。しかし、X社がE電機等に支払った費用とO市から受領したリース料との差額が損失となり、X社はY社に対し、約6569万円の損害賠償を求めて提訴しました。
第一審(原審)は、両社間に本件各契約の成立は認められないとして債務不履行に基づく損害賠償請求を棄却した一方、Y社の一方的離脱は契約交渉段階における信義則上の義務違反(不法行為)に当たるとして、約5270万円の賠償請求を認容しました。Y社は、この敗訴部分を不服として控訴したのが本件です。
本件の争点
本件の争点は以下のとおりです。
| 争点 | 内容 |
|---|---|
| 争点① | Y社による本件事業からの一方的離脱が、契約準備段階における信義則上の義務違反(不法行為)に当たるか否か |
| 争点② | 争点①の不法行為とX社の損害との間に因果関係があるか、また損害の有無及びその額 |
| 争点③ | 過失相殺の可否 |
裁判所の判断
争点①について――Y社の離脱は不法行為に当たるか
東京高裁は、Y社の一方的離脱が契約準備段階における信義則上の義務違反(不法行為)に当たると判断しました。
裁判所は、主に以下の事情を重視しました。
| 考慮事情 | 内容 |
|---|---|
| X社の立場 | X社は、本件工事や保守管理業務を行う能力がなく、代替業者の心当たりもなかったため、本件入札に参加することには積極的ではなかった。 |
| Y社による勧誘 | Y社は、X社に対して積極的に入札参加を働きかけ、見積書等の資料を提供した。 |
| X社の信頼に基づく行動 | X社は、Y社の提供した資料を前提にY社をサプライヤーとして社内決裁を経て入札に参加し、落札後も本件各契約の締結に向けた交渉を継続していた。 |
| Y社の言動の矛盾 | Y社は、O市外の業者であるにもかかわらず、マネジメント役として本件事業に関与することに問題はないと自ら回答し体制図を作成していたにもかかわらず、後になってコンプライアンス上の問題を離脱理由として持ち出した。 |
その上で、裁判所は次のように判断しました。
「被控訴人は、控訴人との間における本件各契約の締結に向けての交渉段階における控訴人の言動により、控訴人との間で本件各契約が締結されることについて法的保護に値する合理的な期待ないし信頼を形成し、本件各契約の締結を前提とする行動をしていたものと認められるから、控訴人が本件事業から一方的に離脱したことは、被控訴人の上記期待ないし信頼による法的保護に値する利益を侵害するものとして不法行為を構成するものと認められる。」
また、コンプライアンス上の問題を離脱理由とするY社の主張については、次のように述べてこれを認めませんでした。
「控訴人は、O市内の業者ではないために、新仕様書上は元請業者になれないにもかかわらず、マネジメントという名目で本件事業に関与することについてコンプライアンス上問題があるとも主張するが、そもそも控訴人は、平成31年2月1日の時点で、元請業者がO市内の業者でなくとも問題ない旨回答している(認定事実(2)オ)上、同年3月15日にも、自ら、控訴人を本件事業においてマネジメントの役割を担う立場とした新体制図を作成したものである(認定事実(3)ウ)から、その後にマネジメントとして本件事業に関与することに問題があることを離脱の理由とすることは、被控訴人の信頼を損なうものとして許されないというべきである。」
争点②について――損害と不法行為との因果関係
もっとも、裁判所は、X社が主張する損害についてはY社の不法行為との間に相当因果関係がないとして、損害賠償請求を全面的に否定しました。
裁判所は、契約交渉段階における義務違反によって賠償される損害は「信頼利益」(相手方の言動を信頼して行動したことによって生じた損害)に限られるという考え方を示した上で、X社が主張する損害について次のように判断しました。
「被控訴人が主張する損害は、控訴人が本件事業から離脱した後に、O市からの要請があったとはいえ、被控訴人において自らの意思で本件事業を辞退せずに遂行することを選択し、KからLED照明機器を購入した上で、E電機との間で上記照明機器への交換工事に係る契約を請け負わせ、その後、保守管理業務を行わせるなどしたことにより負担した費用とO市から本件賃貸借契約に基づき支払を受けたリース料との差額など、いずれも信頼利益に当たらないものであるから、控訴人の不法行為との間に相当因果関係がある損害とは認められない。また、本件工事の遅延等によって、被控訴人がO市に対して支払った遅延損害金や軽減電気料金に係る被控訴人の負担分、弁護士費用等の本件において被控訴人が主張するその余の損害についても、控訴人の不法行為と相当因果関係が認められる損害ということはできない。」
すなわち、Y社が離脱した後にX社が代替業者を手配して事業を継続したことは、O市からの要請があったとはいえX社自身の意思決定によるものであり、その費用はY社の不法行為との相当因果関係が認められる損害(信頼利益)にはあたらないと判断されました。
結論として、東京高裁は原判決を取り消し、X社の損害賠償請求を全部棄却しました。
コメント
本判決の意義
本判決は、契約交渉段階の一方的離脱と損害賠償の範囲について、二つの重要な判断を示しています。
第一に、不法行為の成否について
正式な契約が締結されていなくても、交渉が相当程度進展し、相手方が合理的な期待・信頼を形成した段階での一方的な離脱は、正当な理由がない限り、信義則上の義務違反として不法行為を構成しうることを明示しました。
上記の考え方自体は、従前の裁判例でも繰り返し指摘されている内容ですが、本件で注目されるのは、Y社がコンプライアンス上の問題を離脱理由として主張したにもかかわらず、自らが「問題ない」と回答し体制図まで作成していた経緯があったため、その主張が認められなかった点です。自ら表明した内容と矛盾する事情を後になって持ち出すことは、相手方の信頼を損なうものとして許されないと判断されました。
第二に、賠償の範囲について
不法行為が成立した場合であっても、賠償の対象は「信頼利益」(相手方の言動を信頼して行動したことで生じた損害)に限られます。
本件では、交渉破棄後にX社が自らの意思で事業を継続し、代替業者と契約したことにより生じた損失については、不法行為との相当因果関係が否定されました。
「相手方が不法行為を犯したのだから全ての損害を請求できる」というわけではない点に注意する必要があります。
企業に求められる対応
① 相手方に期待・信頼を形成させる行為に慎重になる
自社が取引の勧誘者となる場合には、相手方に対して積極的に参加を働きかけたり、詳細な見積書・体制図・資料等を提供したりする行為が、相手方に強い期待・信頼を抱かせる契機となることを認識しておく必要があります。
こうした行為は、後に交渉を離脱せざるを得なくなった際に、「不法行為を構成する」と評価されるリスクを高めます。取引への参加が確定していない段階では、相手方の合理的な期待を形成させる言動は控えることが肝要です。
② 正当な理由のない交渉の一方的破棄を避ける
取引交渉が相当程度進展した段階での一方的な離脱は、合理的・客観的な理由がない限り、信義則上の義務違反と評価される場合があります。
特に本件のように、自ら問題がないと表明した事項を後になって離脱理由として持ち出すことは、信義則上の義務違反と認定されるリスクが高い行為と言えます。やむを得ず交渉から離脱しなければならない場合には、その理由を客観的に記録した上で、相手方に対して誠実に、かつ早期に伝えることが求められます。
③ 交渉破棄後の代替措置の実施には法的整理が必要
交渉破棄の被害者となった場合も、漫然と代替業者を手配して事業を継続するだけでは、その費用を相手方に請求できない場合があります。
本判決が示すとおり、賠償として回収できるのは「信頼利益」の範囲に限られます。信頼利益として主張しうる損害としては、例えば入札参加の準備のために支出した調査費用や、相手方との取引を前提として断念した他の取引機会の逸失利益などが考えられます。
もっとも、その判断は事案によって異なります。交渉が決裂した段階で速やかに弁護士に相談し、どの費用が賠償対象となりうるかを見極めた上で対応を進めることが重要です。
④ 公共調達への参加前に仕様書・入札条件を十分に確認する
本件は、地方自治体が発注した公共工事の入札をめぐる紛争です。公共調達においては、仕様書上の入札参加資格・地元業者要件・役割分担等を入札参加前に十分に確認しておかないと、後になってコンプライアンス上の問題が生じ、それが契約交渉の破棄につながる場合があります。
国土交通省は、公共工事に関する標準的な契約条件や品質確保のための基本方針を公表しています(国土交通省ウェブサイト)。公共事業への参加を検討する際には、事前にこれらの行政情報を確認した上で、仕様書の要件を満たした体制を整えることが求められます。
⑤ 弁護士への相談は早期に
取引交渉が複雑化してきた場合や、相手方との関係が悪化してきた場合には、交渉の破棄前後を問わず、早期に弁護士に相談することが有益です。
交渉段階での言動が後に法的評価の対象となることはめずらしくありません。メールや議事録等の証拠を適切に保全しながら、法的リスクを見越した交渉戦略を立てることが、最終的なトラブルの防止やリスクの軽減につながります。
紛争が顕在化してから相談するよりも、交渉の初期段階から弁護士が関与することで、損失を最小限に抑えられる可能性が高まります。
本コラムは、一般的な情報提供を目的として作成したものであり、個別の法律上のアドバイスではありません。具体的な事案については、本ウェブサイト右上の問い合わせフォームよりご連絡ください。

