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マラケシュ条約と、視覚障害者と、著作権法

【2016/7/6追記】 マラケシュ条約の発効にともない、末尾に最新の動向を追記しました。

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  With a language we all understand
  With an equal opportunity
     — Stevie Wonder / Sir Duke (1976) より


桜が咲きはじめ、障害者差別解消法の施行も近づく中、今日のコラムは、視覚障害者と著作権法がテーマです。

先日、新聞を読んでいたら、WIPO(世界知的所有権機関)の事務局長、フランシス・ガリ氏のインタビューが載っていました(日本経済新聞2016年3月21日17面)。
 

ガリ氏は、WIPOによる途上国支援のアピールとして、知財データベースの提供や、医薬品の一部知財の無償提供とともに、次のように述べています。

「(WIPOでは、)視覚障害者が著作物に触れられるようにするマラケシュ条約を2013年に採択した。(中略)途上国の障害者が世界の著作物に接する機会が増える。」

マラケシュ条約」とはあまり耳慣れないフレーズですが、実は視覚障害者の業界や、図書館業界、出版業界ではホットな話題です。はたして、このマラケシュ条約とはどのような条約で、私たちの生活にどんな影響があるのでしょうか。詳しく解説します。

 

1.マラケシュ条約とは?

マラケシュ条約とは何なのか。ざっくり一言でまとめてしまうと、「障害のある人でも本を読めるようにするための条約」です。

視覚に障害があって紙の本を読めない人や、手足に障害があって本を操れない人にも、著作物を利用してもらうことを目的にしています。

条約の正式名称は、
「盲人、視覚障害者その他の印刷物の判読に障害のある者が、発行された著作物を利用する機会を促進するためのマラケシュ条約(Marrakesh Treaty to Facilitate Access to Published Works for Persons who are Blind, Visually Impaired, or otherwise Print Disabled)」といいます。

ここでは、「盲人(Blind)」や「視覚障害者(Visually Impaired)」だけでなく、「印刷物の判読に障害のある者(Print Disabled)」も対象とされていますね。

マラケシュ条約は、2013年6月に、モロッコのマラケシュで開かれた会議で採択されました。このコラムを書いている2016年3月現在では、15ヶ国が批准しているようです。
20カ国が批准したら発効することになっていますので、発効の日は着実に近づいていると言えます。

 

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2.日本はマラケシュ条約を批准するのか?


では、日本はこの条約について、どのようなスタンスをとっているのでしょうか?

2016年3月の現時点では、まだ条約の批准には至っていません。
 

衆議院では2015年6月に、中根康浩議員が「「マラケシュ条約」に関する質問主意書」を提出し、「日本国政府として「マラケシュ条約」を締結する考えはあるか、政府の見解を示されたい。」と質問しています。
政府はこれに対して、「締結に向けて、障害者団体、権利者団体等の国内関係者の要望を十分踏まえつつ、関係省庁間で検討を行っているところであるが、現時点で具体的な締結時期についてお答えすることは困難である。」と答弁しており、現時点でも締結時期は未定のようです。

最近の文化庁の会議の議事録(2015年6月)をみても、「現在,意見集約に向けて関係方面と調整を行っているところ」としか述べられていませんね。
 

 

3.マラケシュ条約を締結すると、著作権法にどのような影響があるのか?

なのでここから先は将来予測ですが、仮に日本もマラケシュ条約を締結するとしたら、どのような影響があるのでしょうか。

先ほど挙げた政府答弁の中では、 「マラケシュ条約の締結に当たっては、マラケシュ条約に規定する義務を履行するため、著作権法(昭和四十五年法律第四十八号)の改正が必要になると考えられる。」 との回答がありました。


さて、ここでいう「著作権法の改正」とは何を指すのでしょうか?
実は日本の著作権法には、すでに37条3項で、視覚障害者が著作物を利用するための規定が設けられています。
 

では、マラケシュ条約と著作権法はどのあたりが異なっているのか
条文を見比べて分析してみましょう。
改正が必要になりそうなポイントとしては、たとえば次の3点が挙げられます。

 

(1)視覚障害者以外の人も対象にふくめる

日本の著作権法37条3項では、「視覚障害者その他視覚による表現の認識に障害のある者」が対象とされています。つまり、「視覚」の障害にしぼった条文になっています(他の条文、たとえば33条の2などでは広く障害者の方を対象にしているのに比べると、ターゲットが狭く設定されています)。

ということは、「視覚」には問題ないけれど、他の事情で本が読めないような場合 - たとえば、目は見えて文字は読めるけど、手が不自由でページをめくれず、本を読めないような人たち - は、条文を素直に読むかぎり、対象から外れてしまいそうです。
 

これに対して、マラケシュ条約では、視覚障害者のほかにも、「身体障害により、読書のために通常程度まで書籍を持ったり、目の焦点を合わせたり、目を動かすことができない人(person who is unable, through physical disability, to hold or manipulate a book or to focus or move the eyes to the extent that would be normally acceptable for reading)」も対象とされています。

ということは、日本の著作権法でも、このような方々(いわゆるプリント・ディスアビリティをお持ちの方)へのケアを、明文で盛りこむ必要がでてきそうです。
 

ちなみに余談ですが、図書館の障害者サービスに関するガイドライン(2010)では、すでに視覚障害のほか、肢体障害や「寝たきり」の状態の人も広く対象にふくまれており、マラケシュ条約を見すえた規定になっていますね。さらにいうと、「紙アレルギー」で本を手にとれないような方もターゲットになってきそうです。

 

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(2)Authorized Entityを指定する

次は「公認機関」の話です。はたして誰が障害者の方を手助けするのか。

日本の著作権法37条3項では「視覚障害者等の福祉に関する事業を行う者で政令で定めるもの」が、著作物の複製や自動公衆送信を行うことができます(くわしくは著作権法施行令第2条。文化庁長官の指定によって決まります)。
たとえばつい先日の官報[平成28年3月29日付]をみてみると、事業者として、「厚木市録音赤十字奉仕団」や「朗読・録音奉仕会「かもめ」」が新たに指定されていました。 
 

これに対して、マラケシュ条約では、「Authorized Entity」(公認機関)という機関を設置することが想定されています。
このAuthorized Entityとは、「教育、教育訓練、アダプティブ・リーディングまたは情報へのアクセス手段を、著作物の受け手に対して非営利で提供することを、政府によって許諾または認定されている機関(an entity that is authorized or recognized by the government to provide education, instructual training, adaptive reading or information access to beneficiary persons on a non-profit basis)」を指します。

この公認機関とはどういった機関を指すのでしょうか。今のところ、文化庁の議事などを見ても明言されていないようです。
ただ、文化庁審議官の作花文雄氏がかつて議事で述べていたように、「何よりも実際の受皿となる機関の方々を早急に見いだして、Authorized Entityに係る規定の趣旨を実現できるように法改正を行っていく作業が一番時間がかかる」ものと思われます。

 

(3)複製物の輸出や輸入をできるようにする

最後は国際的な話です。
日本の国内法である著作権法とは違って、マラケシュ条約は、条約だけあって、締結国の間の取引についても定められています。

具体的にいうと、ある国(A国)で複製された著作物については、A国のAuthorized Entityから、他の国(B国)の対象者へも提供できるようにすることが求められています。

これはコトバで説明するより、図でみたほうがわかりやすいかもしれません。
文化庁国際課の資料(平成25年11月25日付)から、説明の図を引用しておきますので、これをもって説明に替えたいと思います↓

 

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4.現在とこれから

以上述べてきたように、マラケシュ条約の締結にあたっては、日本の著作権法にも少しばかり修正の必要が出てきそうです。
 

では、そのような法改正の日は来るのでしょうか。
 

振りかえると、文化庁の審議官は、2013年11月の審議「重要な条約ですので、政府としてはできるだけ早くこの条約に加入したい」、「少なくとも20か国が締結して発効した後に加入することは避けたい」とも述べていました。
 

それから2年半。
 

条約の批准国は20か国に近づいてきましたし、今年の4月1日からは、日本国内でも障害者差別解消法が施行されます。ひょっとしたら今年は、日本でもマラケシュ条約について何か進展がみられる年になるのかもしれません。
 

コラムの冒頭ではスティービー・ワンダーの詩を引きました。実は彼は、マラケシュ条約の調印を祝った1人でもあります。
彼は、WIPO外交会議の閉会式で、このように語っていました。

「私はすべての政府および国家に対し、この条約が皆さんのそれぞれの国において国法となるよう、この条約の批准を優先することを、敬意をこめて、至急お願いいたします。」


はたして、彼の「お願い」は実現するのでしょうか。今この瞬間にも、本を読むことに困難をおぼえている、世界中のすべての人たち。彼ら彼女らそれぞれに適した"Talking Book"が行きわたる日に思いを馳せつつ、このコラムを閉じることにします。 

 

【2016/7/6追記】
本コラム執筆後、カナダなど数カ国がマラケシュ条約を批准し、2016年6月30日に批准国が20か国に達した結果、条約の発効条件を満たしましたWIPOのリリースによると、2016年9月30日からマラケシュ条約が発効します。

批准国を列挙すると、インド、エルサルバドル、アラブ首長国連邦、マリ、ウルグアイ、パラグアイ、シンガポール、アルゼンチン、メキシコ、モンゴル、韓国、オーストラリア、ブラジル、ペルー、北朝鮮、イスラエル、チリ、エクアドル、グアテマラ、カナダの20か国です。

対して、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、中国などはまだ批准していません。
日本の動向をみると、2016年6月6日の「文化審議会著作権分科会 法制・基本問題小委員会(第1回)」の「配布資料3」で、マラケシュ条約に関して言及されています。
長くなりますが、同資料8ページ以下から引用しましょう(下線:筆者)。
 

 マラケシュ条約の締結には,著作権法において,第37条第3項の受益者の対象を拡大し,例えば,上肢障害やALSなどにより読書に必要な動作が困難な者等,障害により表現の認識が困難な者を含める法改正を行うことが必要である。
 また,障害者団体からは,条約の締結に必要な手当以外の要望事項として,主に以下の要望が寄せられた。
(中略)
 本小委員会においては,条約の締結に必要な手当については,権利者団体からも前向きな反応があったものの,障害者団体から寄せられたその他の要望事項については,反対若しくは慎重な立場が示され,両者の意見にかなり隔たりがあることが明らかとなった。前述したように,障害者団体からは,条約の締結に必要な手当だけを先行するのではなく,その他の要望事項についても併せて所要の措置を講じてほしいとの意向が示されていることから,まずは両者の意見集約に向けた取組を行った上で,改めて小委員会で検討を行うこととされたところである。
 これを受け,現在,文化庁によるコーディネートのもと,それぞれの要望事項ごとに,両者の意見集約に向けた取組が継続的に行われている
 本小委員会としては,本取組について引き続き注視するとともに,その結果を踏まえて改めて検討を行うことが適当である。

 

つまり現時点では、条約批准にむけての具体的な見通しは立っていないようです。ただし、今回の条約発効を機に、流れが変わる可能性もありますので、引き続き注視が必要と思われます。