はじめに
自筆証書遺言は、遺言者が自宅などで手軽に作成できる反面、相続開始後にその有効性をめぐって相続人間で深刻な紛争に発展することが少なくありません。特に、遺言書に記載された筆跡が本当に遺言者本人のものか、押印された印章が本人の意思に基づくものか、といった点が争点となるケースが多く見られます。
今回のコラムでは、自筆証書遺言の有効性が争われ、原審(山形地裁)が遺言を有効と判断したのに対し、控訴審が遺言を無効と判断した仙台高裁令和3年1月13日判決(判例タイムズNo.1491掲載)を取り上げ、裁判所がどのような考慮要素を踏まえて判断したのかを解説いたします。
事案の概要
亡父の相続をめぐる兄弟姉妹間の紛争です。亡父の死亡後、長男である被控訴人廣一が、亡父名義の自筆証書遺言(平成14年12月20日付け。全財産を被控訴人廣一に相続させる旨の内容)の検認を申し立てました。
これに対し、亡父の他の子らである控訴人らは、本件遺言書は偽造されたものであると主張し、遺言無効確認請求等を提起しました。
原審(山形地裁令和元年12月19日判決)は、本件遺言書は亡父が作成したものと認められるとして、遺言無効確認請求を棄却しました。控訴人らがこれを不服として控訴したのが本件です。
本件の争点
本件の争点は、以下のとおりです。
| 争点 | 内容 |
|---|---|
| 争点① | 亡父が本件遺言書を作成したか(自書性の有無) |
| 争点② | 控訴人らによる遺言無効確認請求は、権利濫用又は禁反言違反となるか |
| 争点③ | 被控訴人らは、亡父の預貯金口座から無権限で金員を引き出して領得したか |
| 争点④ | 本件不法行為債権又は本件不当利得債権について、消滅時効が完成したか |
裁判所の判断
争点① 亡父が本件遺言書を作成したかについて
裁判所は、まず立証責任の所在について、最高裁昭和62年10月8日第一小法廷判決を引用し、自筆証書遺言の有効性を主張する側に立証責任があるとの判断を示しました。判決は次のとおり述べています。
自筆証書遺言の有効性が争点となる訴訟においては、遺言証書の成立要件すなわち当該遺言証書が民法968条1項の定める方式に則って作成されたものであることを、遺言が有効であると主張する側において主張立証する責任があると解するのが相当である
その上で、裁判所は、被控訴人らが主張する「亡父の実印による押印がされているから亡父の意思に基づくものと推定される」との点について、次のとおり否定しました。判決は、まず実印に関する事実上の推定について、次のとおり一般論を述べています。
一般に、作成名義人の実印が押印されている文書について名義人が押印したものと事実上推定されるのは、実印は慎重に管理されており、第三者が容易に押印することができないという経験則を根拠とするものである
その上で、裁判所は、被控訴人廣一とその家族は、亡父と長年同居しており、亡父の生前から実印と同一の銀行印を用いて亡父名義の預貯金口座から金員を引き出していたこと、亡父の死後は所有者のいなくなった実印を事実上所持していたことから、実印を容易に使用することができたといえる、と認定しました。そうすると、本件遺言書に実印による押印がされていることをもって、押印が亡父の意思に基づくものであると直ちに推定することはできない、と判示しました。
次に、本件遺言書の自書性については、以下の点を踏まえ、亡父が本件遺言書の全文、日付及び氏名を自書したと認めることには多数の疑問があると判断しました。判決が指摘した主な疑問点は、以下のとおりです。
| 観点 | 判決が指摘した疑問点 |
|---|---|
| 誤字の存在 | 本件遺言書には、亡父及び被控訴人廣一の「廣」が記載されるべき8か所のいずれにも、誤字(本件誤字)が記載されている。亡父が自書したことに争いのない対照資料の多くでは「広」が用いられており、亡父が自己の名や長男の名についてこのような誤字を自書したと考えることに疑問がある |
| 鑑定書の欠陥 | 被控訴人らが提出したB鑑定書は、本件3文字のみを検討対象とし、本件遺言書中に繰り返し現れる同一文字の筆跡を検討していない。また、本件誤字の「まだれ」に筆継ぎと思われる部分が存するにもかかわらず、これを看過している |
| 鑑定手法の問題 | C鑑定書は、自ら一般論として「類似分析の手法」では書き手の異同の判断を誤る可能性が高いと批判しているにもかかわらず、実際の検討では正にその手法に依拠している |
| 筆跡の相違点 | 「松」の字の第3画の起筆位置や、「村」の字の第6画の終筆部の運筆など、本件遺言書と対照資料との間に顕著な相違点が認められる |
さらに、本件遺言書の作成・保管・発見等に関する被控訴人らの供述についても、裁判所は、実際の体験をありのまま述べているとは考え難い箇所が多々あると指摘しました。具体的に問題視された供述と動かし難い事実との不整合は、以下のとおりです。
| 被控訴人らの供述 | 裁判所が指摘する不自然な点 |
|---|---|
| 被控訴人らは、亡父が本件遺言書を作成した場に同席していた | 本件遺言書の真否に関わる事実であるにもかかわらず、本件訴訟提起から1年5か月以上経過した後の準備書面で初めて主張されており、不自然である。また、被控訴人廣一は本件検認手続では「亡父から平成15年頃に遺言書を書いた旨を聞いた」と陳述しており、作成への同席に言及していない |
| 亡父の葬儀の翌日、被控訴人廣一が控訴人廣二ら2名に遺言書の存在を告げ、控訴人廣二ら2名は「遺産は何もいらない」と述べた | 控訴人廣二ら2名はこのやり取りを否定している上、その後控訴人廣二ら2名が繰り返し被控訴人廣一宅を訪問し亡父の遺産について追及した際に、被控訴人廣一が遺言書の話を全く持ち出していないこと等の事実経過に照らし、不自然である |
| 本件協議書案の作成前に司法書士に遺言書の存在を伝えた、本件協議書案作成後・控訴人秋子宅訪問前に本件遺言書を発見した、梅山冬子に押印を依頼した際に本件遺言書を見せた | A司法書士の陳述書の記載や、控訴人秋子宅訪問後に作成された本件書簡に本件遺言書のことが全く記載されていないこと等と整合しない |
| 控訴人廣二ら2名が来訪した際に遺言書の話を持ち出さなかったのは、控訴人らには既に本件遺言書があることが伝わっていると思っていたから | 仮にそう思い込んでいたのであれば、亡父の遺産に関する権利を主張する控訴人廣二ら2名に対し、過去に話したではないか等と指摘することが当然であり、不合理である |
以上を総合考慮し、裁判所は、本件遺言書は、亡父がその全文、日付及び氏名を自書し押印したことの立証がされていると認めることはできないと結論付けました。
争点② 控訴人らによる遺言無効確認請求は権利濫用又は禁反言違反かについて
被控訴人らは、控訴人廣二ら2名は、平成18年2月26日に亡父による遺言書の存在を認識し、自分たちは相続しなくてよい旨発言したことから、遺言無効確認請求は権利濫用かつ禁反言違反であると主張しました。
しかし、裁判所は、争点①で判断したとおり、平成18年2月26日に控訴人廣二ら2名が遺言書の存在を認識し相続しなくてよい旨発言したという事実が認められない以上、被控訴人らの主張は前提を欠き失当であるとしました。
控訴人秋子に係る権利濫用の主張についても、成年後見人であった梅山冬子が本件協議書案への押印を求められた際に家庭裁判所に相談した上で押印を拒否したところ、被控訴人廣一から強く叱責されたという事実に照らしても、また、成年後見人でなくなった梅山冬子の意向により控訴人秋子の遺言無効確認請求が左右されるとは考えられないことからも、失当であると判断しました。
争点③ 被控訴人らは亡父の預貯金口座から無権限で金員を引き出して領得したかについて
裁判所は、原審の判断を一部補正の上、被控訴人らが亡父の預貯金口座から無権限で引き出して領得したことによる損害賠償請求権606万8424円の限度で、控訴人らの請求を認めました。なお、平成17年4月以前のE銀行普通預金口座からの引き出し(合計535万円)については、F銀行のFI口座に移動されただけであったことがうかがわれることから、亡父に損害又は損失が生じたとは認められないとしました。
争点④ 本件不法行為債権又は本件不当利得債権について消滅時効が完成したかについて
裁判所は、原審の判断を引用し、消滅時効に関する被控訴人らの主張を認めませんでした。
コメント
1 立証責任の所在と実印による押印の事実上の推定
本判決は、自筆証書遺言の有効性に関する立証責任が、遺言が有効であると主張する側にあることを改めて確認した上で、実印による押印という外形的事実があっても、当該実印を遺言の利益を受ける相続人が事実上容易に使用できる状況にあったときは、押印が遺言者の意思に基づくものとの事実上の推定は働かないことを明らかにしました。
2 私的筆跡鑑定の信用性に踏み込んだ判断
本判決の意義として注目されるのは、同一性の有無について判断が分かれた複数の私的筆跡鑑定書について、それぞれの鑑定が一般論として掲げる手法と、実際に行われた検討内容との整合性にまで立ち入って信用性を吟味した点です。
筆跡鑑定の証拠としての価値については、最二小決昭40.2.21集刑158号321頁、最一小判平8.2.22集民178号265頁、判タ903号108頁等の最高裁判例の判断が示されてきましたが、個々の鑑定書の検討過程に立ち入って信用性を具体的に判断した公刊の裁判例は、従来必ずしも豊富ではありません。
また、筆跡鑑定一般については、他の鑑定類型と比べて判定の安定性に限界があり、証拠としての重みを評価する際には吟味を重ねる必要があるとの実務上の指摘もされているところです(加藤新太郎編『民事事実認定と立証活動Ⅰ』192頁参照)。
本判決は、対照とする文字の選定が偏っていないか、鑑定書が自ら一般論として批判する手法に実際の検討で陥っていないか、といった視点から鑑定書の信用性を否定したものであり、この説示は実務上の参考となります。
3 対照資料の選定の重要性
本判決と原審との判断を対比すると、筆跡鑑定における対照資料の選定の在り方も問題として浮かび上がります。本件で対照資料として用いるべきか否かが争点となった主な書面と、その性質、本判決が指摘した問題点は、以下のとおりです。
| 対照資料 | 書面の性質 | 本判決が指摘した問題点 |
|---|---|---|
| 本件書面7(所得税確定申告書の控用書面) | カーボン紙で複写された文字の上にボールペンで上書きされた書面 | カーボン複写された文字の上に文字を書き込む必要性が通常は容易に考えられず、このような書面が存在していること自体が理解に苦しむ |
| 本件書面8(被控訴人廣一を申込人とする住宅ローン保証委託申込書の連帯保証人欄) | 原本が提出されておらず、写しのみが提出された書面 | 書面の性質に照らしても、被控訴人廣一が証拠提出時点で原本を所持しておらず写しのみを所持していたというのは理解に苦しむ |
原審は、亡父が「廣」の字を用いて署名したことを示す対照資料として上記の書面等を採用した上で、これらと本件遺言書との筆跡の類似性を認めて自書性を肯定しました。
しかし、本判決は、これらの書面はその体裁からしても、もともとの原本作成者以外の者がその一部に改ざんを加えることが容易であり、対照資料として採用すべきではないと判示し、これらを対照資料として用いた私的筆跡鑑定書にも看過できない欠陥があるとして、その信用性を否定しています。
本判決のこの姿勢は、筆跡鑑定の信頼性が対照資料そのものの真正性に支えられていることを改めて示すものといえます。自書性を争う場面では、まず対照資料として用いる文書自体の真正性や改ざん可能性を慎重に吟味する作業が欠かせません。
4 多角的な事実関係を踏まえた判断姿勢
本判決は、自筆証書遺言の自書性を判断するに当たり、筆跡鑑定の結論のみに依拠するのではなく、遺言書中に記載された誤字の有無や対照資料との具体的な相違点、遺言書の作成・保管・発見等の経緯に関する関係者の供述の信用性、遺言の利益を受ける相続人の遺言発見後の言動と動かし難い事実経過との整合性など、多角的な事実関係を踏まえて慎重に判断する姿勢を示しました。
5 原審と本判決とで判断が分かれた点
本件は、原審(山形地裁)が本件遺言書を亡父が作成したものと認めたのに対し、控訴審(仙台高裁)がこれを否定したという、審級により結論が分かれた事案でもあります。両判決の主な判断の対比は、以下のとおりです。
| 比較事項 | 原審(山形地裁) | 本判決(仙台高裁) |
|---|---|---|
| 本件遺言書の自書性 | 肯定 | 否定 |
| 対照資料(カーボン上書きの確定申告書、住宅ローン保証委託申込書の写し等)の取扱い | 対照資料として採用し、本件遺言書との筆跡の類似性を認定 | 改ざんが容易な体裁であるとして対照資料から排除 |
| 被控訴人廣一が長期間にわたり検認手続をとらなかったこと | 家族内の問題に裁判所の介入を求めるのははばかられたとして説明がつかないことはない | 不自然 |
| 被控訴人廣一が控訴人らからの追及に対し本件遺言書の存在を告げなかったこと | 既に控訴人らに本件遺言書の存在が伝わっていると思っていたとの弁解を踏まえれば不自然ではない | 過去に遺言書の存在を伝えたではないか等と指摘するのが当然であり、不自然 |
| 被控訴人らが本件遺言書作成現場に同席したとの主張 | 行動に直ちには了解し難い点があるとしつつ、本件遺言書の作成者についての疑いを差し挟むには足りない | 訴訟提起から長期間経過後に初めて主張されたものであり、本件検認手続での陳述(亡父から作成したと聞いた旨)とも整合せず、信用できない |
例えば、上記の表のうち被控訴人廣一が控訴人らに本件遺言書の存在を告げなかった点について、原審は、被控訴人廣一の弁解を踏まえれば不自然ではないと評価していました。
しかし、本判決は、亡父の遺産を全て自分が相続したいと望んでいた被控訴人廣一としては、亡父の遺産に関する権利を主張する控訴人らに対し、過去に遺言書の存在を伝えたではないか等と指摘するのが当然であるとして、原審とは異なる評価を示しています。
同一の証拠関係を前提としても、いずれの事実を考慮要素として重視するか、当事者の行動を合理的にどう評価するかによって判断の帰結が左右され得ることを示すものであり、自筆証書遺言の自書性をめぐる事実認定が繊細な検討を要するものであることがうかがえます。
6 遺言の作成側・無効主張側それぞれに求められる対応
本判決から、自筆証書遺言を作成する側からみれば、後日の紛争を避けるためには、自筆証書遺言保管制度の利用や公正証書遺言の活用など、遺言の真正を客観的に担保できる方法を選択することが望ましいといえます。
他方、遺言の有効性に疑問を持つ相続人の側からみれば、筆跡の特徴や誤字の有無、押印された印章の管理状況、遺言書の発見・開示の経緯、遺言の利益を受ける相続人のその後の言動など、遺言書本体の記載のみならず、その作成・保管・発見等にまつわる客観的事実を丁寧に積み上げて主張・立証していくことが重要となります。
おわりに
自筆証書遺言の有効性をめぐる紛争は、関係者の感情的な対立を背景に長期化することが多く、立証のために検討すべき事実関係も多岐にわたります。また、的確な主張・立証のためには、関係資料の収集・分析、対照資料の選別、必要に応じた筆跡鑑定の依頼など、専門的な知見を要する作業が伴います。遺言の有効性に疑問をお持ちの方や、ご自身の遺言を確実に残したいとお考えの方は、早い段階で弁護士に相談することで、見通しを立てた上で適切に手続を進めることができます。
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