映画を通り抜けて
その痕跡が残ってしまった者は
もはや他の道に入ることはできない
ー ジャン・リュック・ゴダール
こんにちは。今日のコラムは、久々に映画の話題です。
すっかり秋日和ですが、去る9月には映画の保存をめぐって2つの大きなニュースがありました。
1つ目は、日本を代表する映画監督、小津安二郎氏の1929年発表のサイレント作品「突貫小僧」のフィルムが新たに見つかったことです(朝日新聞DIGITALの記事参照)。
この「突貫小僧」といえば、何年かに一度、意外なところからフィルムが発見されており、もはや映画ファンの間では恒例行事。今回は、九州の映画ファンの所蔵品の中から見つかったようですね。
そして2つ目のニュースは、この本が発売されたことです。
東京国立近代美術館フィルムセンターの主任研究員、岡田秀則氏の著作。
『映画という《物体X》 フィルム・アーカイブの眼で見た映画』(立東舎、2016)です。
私(数藤)も以前、当事務所のコラムで「フィルムセンターとフィルム・アーカイブ事業の過去と未来」と題して、フィルムの保存をめぐる法律上の論点を整理したことがありますので、本書のことはとても気になっていました。
さっそく読み終えた感想を、まず性急に書き付けるならば、
・これは今年出版された映画本のなかで、最高の一冊ではないか。
・映画フィルムの保存をめぐる本かと思いきや、それにとどまらず、映画館で映画を体験することの、かけがえのない価値を記した本ではないか。
このように断言できます。
しかし、ただこれだけ書いたのでは、本書の豊かさを取りこぼしてしまいそうです。
中身を詳しくご紹介しましょう。
1 《物体X》を読む
著者の岡田氏は、先ほども書きましたとおり、映画上映施設であり、映画保存施設でもあるフィルムセンターの主任研究員の方。
映画のフィルム/マテリアルの収集・保存や、上映企画の運営、映画教育などに携わっておられます(本書著者紹介より)。
そして本書は、岡田氏が、フィルムについて、そして、ノンフィルムについて書いた本です。
ノンフィルムとは何か?
ノンフィルムは、スチール写真や、ポスター、脚本など、映画にかかわるフィルム以外の資料をいいます。
本書では、映画フィルムの保存をめぐる話はもちろんのこと、さらにフランスとイタリアでのノンフィルム資料調査の話(136p)、1960年代まで使われていたカーボンアーク式映写機の話(200p)、チラシやパンフレットの収集(208p)、2010年前後に開館が相次いだ映画資料館の話(227p)といったように、映画の機材、映画の宣伝などの、映画の周辺をめぐる話題にも満ちています。
(本書を読む際の私の副読本たち。向かって右はフィルムアート社刊『映画の考古学』。向かって左の『大人の科学マガジン vol.15』20pには、フィルムセンターの方が監修された「フィルムサイズで見る映写機の変遷」という特集もあります)
そして本書の中では、法律の話も顔を出します。いくつか例を挙げれば、
- 国立国会図書館法においては、映画フィルムを国立国会図書館へ納入することが明記されていたものの、「附則」という条文の存在によって、現在にいたるまで納入が免ぜられており、だからフィルムセンターが保存を担当していること(15p。私が以前に記したコラムでも触れた点です)
- かつて映画フィルムに用いられたセルロイドは、硝酸セルロースを用いているため爆発のおそれがあり、消防法でも危険物に分類されていること(38p。消防法の別表にいう「第五類危険物」です)
- エジソンの時代には映画を著作権登録する制度がなく、エジソンはかわりに、紙にプリントした写真として登録をしたおかげで、今でも彼の作品をペーパープリントという形で見られること(89p)
- フランスの映画ポスターのほとんどには画家のサインがあり、画家の著作権が確立されていること(149p)
などなど、どの論点も、掘り下げていくだけでそれぞれ1本のコラムが書けそうなほど、映画とフィルム、ノンフィルムの情報が詰め込まれた一冊になっています。
2 シネマの体験装置
その一方で、私は、本書の別の側面にとても強く惹かれました。
それは、この本が「映画館で映画を観る」ことの魅力について、くりかえし強調していることです。
むしろいま考えずにはいられないのは、映画館の暗闇の中で、互いに面識のない人々が同じスクリーンを見つめているという単純な事実だ。生活環境もまったく異なる、互いを知らない他人と映画を共有すること。その意義を、「廃墟」の記憶を踏み越えて復権させるべきだろう(199p)
DVDで鑑賞することを誰もが「映画を観る」と言ってはばからない現在、それでも映画館の闇に意義があるとすれば、それは生活環境もまったく異なる、互いを知らない人たちがスクリーンに向かっているからだろう。(中略)映画は誰だか知らない他人と共有されなければならないのだ。(115p)
それにつけても、映画はフィルムで観たい。(129p)
そしてこれらの言及は、ややまわり道なのかもしれませんが、「なぜ映画フィルムを保存するのか?」という重要な問いへの、1つの答えにもなっているように思えます。
すなわち、映画館で映画を観ることが大切だ、だからこそ、映画館で何十年・何百年後でも上映できるフィルムという素材を残さなければならないのだと。
ここからは少し、個人的な思い出も交えて書いてみましょう。
本書の中盤には、「いまなぜ映画館が必要なのか」というタイトルの、5頁ほどの短い論考が控えています(112p)。
実は私、初出の際にこの論考を読んでいました。
今から10年ほどさかのぼった2006年。書店で私は『未来』という小冊子を手にとりました。頁をめくっていると、「他人と一緒に見る夢」というタイトルの論考が目に飛び込んできました(当時はこのようなタイトルでした)。
まずは何よりも、岡田氏が記した冒頭の一文がとても素敵でした。
かねてから、子どもたちに『ドリーの冒険』(1908年)を見せたいと考えていた。
これはとても新鮮で、かつ、とても腑に落ちる提案に思えました。
『ドリーの冒険』とは、D・W・グリフィス監督による初期の映画作品。音もなく、映像も荒い、10分程度の小品です(今はYouTubeでも観ることができます)。
まだ幼い女の子が樽に閉じ込められて、川を流されるだけの映画ですが、そのシンプルな内容は、時代や国、画質を超えて、いつの世の子どもたちの目にも、強いインパクトを残すように思えました。
岡田氏も『ドリーの冒険』をこう評しています。
それはいま、あたかも自分の目の前で映画が生まれつつあるような生々しい感触を与えてくれた。そしてその感触を子どもたちも必ずや共有してくれるだろうと信じた。(112p)
そのあと岡田氏は、実際に、子ども向けの上映で『ドリーの冒険』を披露するのですが、その結果、子供たちはどのような反応をみせたのか・・・答えはぜひ本書で確認していただきたいと思います(私は初出で読んだときから、このエピソードを10年間忘れられませんでした)。
3 「夢」の誘惑
そして、岡田氏は続けてこう記します。
その一年後、夏休みの企画「こども映画館」で、とっさに子どもたちにこんな言葉を語りかけてみた。「映画とは何でしょう? それは、暗闇の中で、知らない人たちと一緒に、おんなじ夢を見ることです」。ほとんど思いつきのような一言だった。(114p)
暗闇の中で他人と一緒に見る夢。映画とは結局、そういうものかもしれません。
そんな夢が見たくて、私は今でも、映画館に足を運んでいるのかもしれません。
たとえば今年8月、丸の内のシネコンで観た『シン・ゴジラ』。自分がいま映画を観ているこのビルごとなぎ倒され、破壊され尽くすような凄まじい夢を見てきました。
あるいは今年9月、新宿のバルト9で、ひしめくカップルとアニメファンに囲まれて観た『君の名は。』。それはただただ綺麗で、甘酸っぱい夢でした。
まだ観れていませんが、例えば『ハドソン川の奇跡』でも、『ジェイソン・ボーン』でも、それぞれの暗闇、それぞれの夢が待っていることでしょう。
一本の映画をみて、同じところで笑ったり、違うところで泣いたりすること。
その経験をまるごと共有すること。
それが映画の(映画館で観る映画の)価値なのかもしれません。
映画を保存すること。さらにいうと映画館を、そしてフィルムを保存するということは、そのような映画がもっている価値と、切り離す事ができないように思えます。
4 カーペンターについてお話させていただきます
さて、少し自分の思い出のほうに脱線し過ぎたかもしれません。
本書の魅力について、話を戻しましょう。
本書は、映画に詳しくない人にも伝わるように、読みやすくわかりやすく書かれていますが、コアな映画ファンに向けても、"わかる人にはわかる"映画ネタが仕込まれています。
たとえば、「映画は二度生まれる」(99p)や、「メカスは昨年83歳になった。」(123p)といったフレーズにニヤリとする映画ファンもいるでしょう。
また、「映画のゴールキーパー」(15p)や、「果たして自分は、どんなボールでも受け止められる理想のゴールキーパーになれるだろうか」(18p)といったセンテンスをみて、ヴィム・ヴェンダース監督の某作品を思い出した私は深読みしすぎでしょうか。
そして、タイトルに掲げられた「物体X」とは、もちろんジョン・カーペンター監督の『遊星からの物体X』(1982年)ですよね(ひょっとしたら1951年のホークス版かもしれませんが、以下は個人的な思い入れということで)。
私も本書を読んでいて、カーペンター監督の映画のなかから、ふと思い出したシーンが2つありますので、最後にそのことに触れて、このコラムを締めましょう。
まず1つ目は、『エスケープ・フロム・L.A.』(1996)の、あのとにかく目を見張るしかないサーフィンのシーン。カート・ラッセルとピーター・フォンダが、CGを使ったありえない大津波を軽々と乗りこなして、別れ際に手と手をタッチしながら「じゃ、また後でな」というあのシークエンス(何度観ても泣けます)。
もう1つは、『ゴースト・オブ・マーズ』(2001年)の終盤のあるシーン。火星でゾンビの群れ(?)に襲われて、絶体絶命のピンチに陥った主人公アイス・キューブが、それでも仲間に力強くウインクして「もう後がねえ。だが生き延びるぜ」と宣言する、あのヒトコマ(こちらも泣けて仕方ないです)。
そう、絶体絶命の状況に置かれているのは、映画フィルムも同じなのかもしれません。ある意味では、2016年に映画フィルムが置かれた状況は、火星でゾンビに襲われるよりもなお厳しいのかもしれません。
たとえば、「知的財産推進計画2016」(PDFリンク)を見ても、映画フィルムの保存活動は相変わらずフィルムセンターに委ねられているようです(同計画50p参照)。
また、文化庁が2017年度から、音楽などの著作物に関する情報をまとめた公的なデータベース作りに乗り出すというニュースが9月に報じられましたが(日本経済新聞9月23日記事リンク)、映画のデータベース化がいつごろ実現するかは現時点では不明確です。
(「知的財産推進計画2016」概要版(PDFリンク)15pより。映画アーカイブはやはりフィルムセンターが担当)
しかしながら、それでもなお、本書からは、ジョン・カーペンター監督の映画と同じパッションを感じる瞬間があります。
本書のあとがきで、
ただ「映画保存は大切なんです」と拳を振り上げる本にだけはしたくなかった。(253p)
と記す岡田氏のテキストからは、あのカート・ラッセルの別れ際のタッチや、アイス・キューブのウインクと同じような、気さくさ、ユーモア、そして力強さをつい感じてしまうのです(そして何より、私自身もまた映画館に行きたくなってきます)。
そんな感覚が1人でも多くの方に届くこと、そして1人でも多くの方が、これからも映画館の暗闇のなかで同じ夢を見ることを願って、この書評のような、または独り言のようなコラムをそっと閉じたいと思います。
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